朝日山常福院

横内城とは

城主堤弾正と正室朝日御前

朝日山常福院山門を入ると、当院の先師尊霊・累代寺族ならびに無縁塔の一群がある墓所の一角に、ひときわ目を引く墓標がある。横内城主堤弾正則景と正室朝日御前(お福の方)のものである。横内に堤氏がきたのは今からおよそ五百年ほど昔のことである。現在の当院が立っている場所に「横内城」、別名「提城」・「鏡城」があったとされており、安養寺 常福院の寺号・院号も、堤氏との関係があるとされ、それ以前の当院は、定額寺と称していた。
朝日山常福院氏が明応七年(1498)に、提浦の古館(現在の松原町)から横内に移り、城を築いたとされており、初代城主は南部藩 第二〇代信時の四男光康である。堤氏が横内にきたことにより、当院は、横内から現在の「ねぶたの里」周辺の、「梵坊」と呼ばれる地に、拠点を移したのである。光康という人物は、青森市の堤川を開発し、現在の発展の礎をなした人物である。しかし文明二年、志し半ばに戦死してしまう。
現在当院にある墓標は、初代城主の子、三代目にあたる孫六のものである。この三代孫六は津軽の諸記録によれば、「鬼の孫六」といわれるほどの豪傑な人物であったとされる。
しかしながら、孫六も天文二十三年「九戸の乱」において桜庭にて戦死したと伝えられている。その後、横内城最後の城主は孫六の子が継ぐも、津軽藩城主為信公との交戦の末討死したとされる。
以下に、津軽家(大浦氏)の系譜を載せると、
朝日山常福院

見てみると、横内城歴代城主は津軽家との密接な関係をもっているといえる。歴代城主は、津軽との縁組により青森における勢力均衡を目的としいるとも考えられる。また、津軽家にとっても南部からでた堤家との政治的、結束が必要であるとも推察できる。
さらに、堤家(南部)の系譜を見てみると、
朝日山常福院家(南部)での系譜にも、津軽家(大浦氏)との縁組が連続して続いていることがわかる。両家は互いに力関係を保つため、そのようなことをしたといえる。しかしその関係は三代目のときにその効力をうしなう。三代目城主孫六のとき、津軽の為信公との戦の末、敗北し落城してしまったのである。そのときの正室であった朝日御前は亡き、夫と家臣たちの菩提を弔うため、髮を切り剃髪となり佛門の道にすすまれました。それを知った津軽家では為信公の伯母にあたる御前の冥福を祈るため、定額寺から御前の「常福院殿安養妙貞大禅定尼」の戒名にちなみ、「安養」を寺号として安養寺とし、「常福」を院号として常福院として定めたのである。
以来、当院は定額寺から常福院とあらため、最勝院をはじめとする津軽真言五山の隠居寺として、また堤家の菩提寺として、南部家と津軽家の縁の深い寺院としての歴史を歩んでいくのである。
また、現在でも、当院の境内のいたるところに、城跡を思わせる堀が残っており、歴史的からも当時の領地の広大さを物語っている。