帰化僧 圓智上人開基
当院の歴史を紐解いてみると、所蔵の『常福院縁起』によれば、開基は推古天皇(554-628)の時代にまでさかのぼる。それには、中国からの帰化僧 圓智上人の開基と記されている。上人は奥州、現在の東北地方の地を、佛法の加護をもって済度することを誓願とし、布教・教化したとする。当時の活動拠点は、津軽阿津摩山(あずまやま)とされており、その地に草庵を結び大日如来を御本尊として大日坊と称した。これが当院の前進である。また、元禄十三年(1700)九月に調査された、青森県所蔵の『真言宗寺院録記』には、
「横内村常福院ハ古ヨリ草庵ニシテ、眆トシテ、何年ヨリカ知ラズ、村老語レテ曰ク、凡ソ当寺ハ歳暦遥遠ニシテ八百余廻ニ向フ。焉レ旧地ハ他に異レリ・・・」
津軽真言五山の隠居寺としての当院
時代が降ると、当院は弘前市の金剛山最勝院を筆頭とする津軽真言五山の隠居寺として定められ、津軽藩より五〇石以上の寺領を拝受した。津軽真言五山とは、天海和尚と幕府が津軽藩との相談により取り決めがなされたもので、最勝院・百澤寺・国上寺・橋雲寺・久渡寺 の五つの真言宗寺院を定めたのである。また、当時、最勝院が京都にある勧修寺の宮より代々僧位権僧正院家の称号を勅許されたことから、当院もその性格上、代々称号を継承していた。さらに、時の藩主の官位が従三位にたいし、正三位であったことから、最勝院と同様、「土踏まずの常福院」としていわれていたとする
典拠 『常福院縁起』・『真言宗寺院録記』を参考